過ぎ去りし “戯れ言” 2002年 初春




2002年1月29日(火)

 そうだ、家業のことを書いていませんでした。家業は2つあって、我々は民宿を手伝っています。父の死も民宿のお客様には関係がございません。ですから、出来るだけ迷惑をかけないようにしようと準備してきました。昨日は父を自宅へ移した後、続々と集まる親戚やら親父の知り合いやらの相手、そして平常通りの民宿の運営をしていました。今朝も5時から民宿はいつも通りです。

 父の遺体は民宿とは別棟の広間に北枕で寝かせ、今夜通夜をすることになっています。昨夜、関西の親戚から陰膳や線香が無いと言われましたが、通夜までは病人として扱うのだそうで、魔除けの白布で顔こそ覆ってはいますが、北枕以外は退院時のままです。



2002年1月28日(月)

 朝5時ちょっと過ぎでしょうか?早朝の仕事中に電話です。「××病院の看護婦の○○ですが、お父さんの呼吸が止まりそうなので近親の方に声をかけていらしてください」との電話。こういった時のために事前にお願いしていたパートの方へ電話して、仕事の引継が出来次第みーちゃん氏と長女H氏、それに家族同然に暮らしている方お二人と共に病院へ向かいました。
 昨日の雪が凍っているので慎重に、とは言え急いで車を病院へ走らせます。5時50分頃に病室へ入ると、担当の若い女医と元担当の中堅の男性医、そして母と看護婦が父を囲んで立っています。父は濁った目を半眼に開け、口をだらしなく開いていました。人工呼吸器が酸素を供給していますが、心電計は外されていました。明らかに息を引き取っているようです。弟は出張で後3時間はかかるようです。その旨を医師に告げると、これ以上待つのも詮方なしと言うことなのでしょうか、5時52分に死亡との診断が下されました。後々聞いたところでは、その2時間ほど前から心音は途絶えていたようです。

 父と最後に話をしたのは2日前の夜です。彼は「金八先生」をテレビで観ていました。その夜腹を立てて帰りましたが、そういう関係でしたから、まぁそんなものなのです。その翌朝、車を駐車場で当て逃げされるし…。
 死因は肺癌となっています。病院側から提示された同意書にサインをして、解剖による死因の究明は行わないことに。その後、近しい親戚へ父の死を電話連絡し、更に事前に決めてあった葬儀社へ連絡して、遺体を病院から自宅へ搬送する手配をしました。それらが終わる頃には、父の死に化粧も終わっています。死亡診断書ならびに死亡届に関しては葬儀社が手続きしてくださることになっているため、病室の片付けなどをして先に帰ることにしました。今日もまた、忙しくなりそうです。



2002年1月16日(水)

 昼から親父の治療状況の説明が病院側からありました。肺のレントゲン写真が提示され、炎症の度合いが日毎に増し、呼吸困難になるのも時間の問題との事。炎症の原因は放射線によるものか、はたまた細菌などの感染症か、癌そのものなのか…。感染症ならば治癒の余地があるけど、痰が出ていないのでその可能性は低いものと思われます。
 医師からは、3回目のステロイド大量投与について相談がありました。2回目の効果が1回目に比べて50%程度だったため、3回目では殆ど効果が期待できないとのこと。しかもステロイドの大量投与は内臓出血の副作用があり、効果とのトレードオフなのだそうです。母と相談の上、3回目のステロイド大量投与をお願いしました。



2002年1月15日(火)

 親父の容態悪し。ステロイドの大量投与2回目終了。昼に発作があったそうだが、すぐに納まったとのこと。今夜から再び母T氏が付き添うことに。そんな訳で、今朝からはみーちゃん氏と二人して家業を切り盛りしています。



2002年1月8日(火)

 昨夜は七草粥ならぬ七草饂飩で、正月気分は(やっと)終了。今朝から、完全に平常です。久し振りにみーちゃん氏共々5時起きで朝の仕事。



2002年1月7日(月)

 民間も仕事始めで、年末に帰省したお客様も戻ってきました。また賑やかになります。取り敢えず、今日明日は家族だけで切り盛りしますが、水曜日からはパートの方にも応援を願う予定。

 お客様から「ハムナプトラ2 黄金のピラミッド」のビデオテープを借りたので、昼の空いた時間を使って視聴。途中、いろいろと中断があって集中して観ることは出来ませんでしたが、なかなか面白かったです。先日観たティム・バートン版「猿の惑星」よりも好きだな(苦笑)。

 正月以降、ケーキ三昧。遂に食べきれないカットが腐ってしまった…。食事も美味くて、食べ過ぎの感があります。



2002年1月6日(日)

 親父の方は、昼の間弟の嫁さんが付き添っています。夜の付き添いは、ひとまず終了。

 引っ越しの荷物が片付きません。収納が少なく、物が多いのが原因。しかし、親父の物なので、明らかに不要品なのですが処分できないでいます。取り敢えず使っていないダイニングに段ボール箱を積んで保管することにしましたが、見苦しいのでパーティションで目隠しすることにしました。
 先月購入したキャンバスロッカーと同じイタリア evoluzione のキャビナシリーズにあるパーティションを TESTACIO へ注文しました。青/白のストライプ柄が欲しかったのですが完売のため、黒/白を注文。キャンバスロッカーがとても可愛かったので、パーティションも楽しみです。

 年末に見られなかった紅白歌合戦の録画テープを家族3人で見ました。ドリフターズが嬉しかったなぁ。長女H氏は、とっとこハム太郎の登場に歓声を上げていました。あの子供向けシークエンスは、ビデオCD化することに。



2002年1月5日(土)

 親父は急速に恢復して、上半身を起こして新聞を読めるほど。但し、肺胞細胞の不活性度合いが高く、鼻への酸素供給は欠かせなくなりました。咳の方は強力な薬を投与して、完全に止まっています。しかし、糖尿病になる副作用があるとのことで、様子を見ながら投与を止めることになるとのこと。抗炎症剤として、ステロイド剤を点滴投与していましたが、こちらも止めたとのことでした。

 仕事は睡眠時間が不足し勝ちで結構きついですが、お客様が良いので楽しくもありますね。今日は久し振りに映画の話で盛り上がりました。

 明日は近所の公園で、どんど焼きがあるとのこと。この辺では1月7日の早朝にやる行事ですが、休みの関係で6日になったようです。点火も6時30分予定と、日時は昔と変わりました。去年の熊手やらお守りなどを、仕事が終わった後に公園まで持って行った次第。



2002年1月4日(金)

 朝まで電話がありませんでした。親父は保っているようです。

 さて、寝坊など以ての外(苦笑)。目覚まし2つで5時起床。みーちゃん氏と二人して朝食の準備です。お客様がいらっしゃるのが早く、朝の仕事は7時ちょっと過ぎに終わりました。

 取り急ぎ病院へ行き親父の様子を見たところ、昨日同様に顔色は悪いものの生気が戻ってきていました。母が居ないため訊くと、体調を崩したとのことで外来に行かせたとのこと。待合室には、8時の受付開始を待つ母が居ました。話を聞くと、胃痛に下痢、挙げ句に食事を戻してしまうとのことです。とは言え、この町の市民病院の外来は時間が掛かることが有名です。結局、外来に掛からず、一旦自宅に戻ることになりました。

 自宅で食事を摂りましたが、母は戻すこともなく体調も良くなりました。取り急ぎ定期預金の引き出しと、司法書士並びに会計士と相談など。急いで処理しなくてはならないことは、特に無さそうです。
 事務処理に意外と時間がかかって、病院に戻ったのは昼過ぎでした。親父に所在を知らせていなかったので、病院内を弟夫婦に探させていたとのこと。弟夫婦には留守電で伝言してあったのですが、伝わっていなかった模様。まぁ、母を気遣うほど親父は恢復した次第です。



2002年1月3日(木)

 お義母さんたちが帰京するため、入院している親父を除いて皆で出掛けて昼食。積雪が多く、念のためタクシーを使いました。お店はバイパス沿いの「グルメドール」というファミレスでしたが、意外に美味しかったです。パン・グラタンは特にお薦め。昼食後、高速バスの時間もあって、親父の見舞いは後日と言うことに。

 お義母さんたちを送った後、病院へ。親父が個室に移っていて吃驚。咳は止まっているようですが、顔色は相変わらず悪いままです。主治医からレントゲン結果の説明があって、肺の炎症が思いの外拡がっている。放射線治療の影響なのか、黴菌による感染症なのか、はたまた癌細胞なのか不明。ここ数日で急速に炎症が拡がっているため、場合によっては今夜あたり危篤状態に陥る可能性もあるとのこと。喉への送気管挿入の相談もあり、送気管挿入はとても痛いために薬で意識レベルを下げる必要があることや、病気の性格上、送気管挿入後の回復も期待薄であり、1週間送気管を入れていても快復しない場合は、喉を切開して気道を確保することになる旨の説明もありました。そうなった場合、十中八九危篤状態まで意志疎通は困難とのこと。病名や病状、総て告知してきていることもあり、送気管挿入に関しても本人に確認して欲しい旨を回答。取り敢えず、今夜は母が付き添うことにして、家業は私達が切り盛りすることになりました。
 連れ合いの実家へ正月の挨拶に行っている弟へ電話すると、丁度帰宅途中。親父の病状を説明しました。また、何分酷い雪でもあり、急いで事故など起こさないように注意も含めて。

 夕方からてんてこ舞いです。夕食の準備から諸々、それでもお客様が少なかったことや気心の知れた方々だったこともあって、何とかつつがなく今日の仕事は完了しました。

 夜、弟夫婦が病院に到着したそうで、彼から電話がありました。親父の状態にショックを受けたようで、涙声です。夕方は携帯電話だったため、詳しく伝えられなかった病状を連絡。



2002年1月2日(水)

 昨夜は夕食後、お義母さんたちとお茶を飲みながら年賀状の整理をしていました。取り急ぎ50枚ほど年賀状を返さなくちゃと、足りない分を郵便局の夜間窓口で買って来て印刷していました。
 親父は咳き込む回数が減っているので、体力も追々戻ってきそうです。取り敢えず、酸素吸入器は外しています。

 新年2日は初売りです。田舎では初売りはお祭り然としていて、早朝から多くの小売店が店を開けます。しかし、人出は郊外の大型店に取られて、商店街を歩く人影は疎らです。お祭りなので、知らせの花火が景気よく50発ほど打ち上げられました。早朝6時だと言うのに…。そんな訳で、初夢をみる時間もなく目覚めてしまいました。
 年賀状をいただいた方で、出してない分の年賀状を作り、その後お義母さんとお祖母ちゃん、そしてみーちゃん氏を商店街まで送りました。案の定人出は少ないのですが、休日の午後よりは人が多いかな?(苦笑)年賀状をポストに投函して先に帰宅。

 お義母さんたちを車で迎えに行き、帰宅後朝食。その後は朝の仕事を片づけ、長女H氏を起こしてから、再びお義母さんたちとみーちゃん氏をインターチェンジ近くの大きなお土産物屋さんへ送りました。帰宅途中で酒の量販店へ寄って、お客様用の純米酒を購入。酒は嗜まないので、店員に味を訊いて買うようにしています。初売りということもあって、お年賀が付きました。
 帰宅すると、またまた年賀状が来ています。5通ほど返信の必要があり、年賀状を作成。一段落したところにみーちゃん氏から迎えに来て欲しい旨の連絡があり出かけました。途中、年賀状を投函。
 朝から小雪がぱらついていましたが、ちょっと強い降りになっています。しかも、北風がとても強い。そんな中、彼女たちはお土産物屋のはしごで結構歩いたみたい…。
 温泉に送って、単独で帰宅。そのまま母T氏を病院まで送りました。今日は午後から友達に会う予定。そろそろ昼飯でも食べようかな?

 夕方、みーちゃん氏と一緒に友人宅へ。ところが、友人の3歳になる男の子が長女H氏を待っていたようで、一旦自宅に引き返して長女H氏も連れてきました。彼らは仲良く遊んでいます。その後、昨年離婚して身軽?になった友人も合流して、いろいろと積もる話しもあって4時間ほど談笑。英語でないと研究成果を教授できない現状は、思っていた以上に英語の重要性を痛感。まぁ、少なくとも自分は研究者ではないので関係がありませんけれども…。

 夜、幼なじみ二人が久し振りに遊びに来てWRCの話など。ラリーストの彼らは、例年恒例の山道走りに出掛け、センターデフを壊してしまったのだそう。コンストラクターズポイントの方式が変わって、プジョーが圧倒的優位にたったとか、いろいろと話しができて楽しかったです。



2002年1月1日(火)

 明けましておめでとうございます。

 大晦日の晩だというのに、親父は救急車を呼んで緊急入院。昨日はてんてこ舞いの一日でした。
 朝から大掃除をして3時頃に食材の買い出し、夕方帰宅したのですが、料理の匂いで気持ち悪いと親父が訴えてました。夜になって咳き込み過ぎで酷い頭痛も伴うようになったようで、これはいけないと自分で病院へ電話をして入院の許可をとって救急車を呼んだのだそうです。そんなことは家族全員知りません(苦笑)。病院からの入院許可の電話で母T氏が吃驚して親父の寝室へ行って、はじめて様子が分かった次第です。自営業者が自宅で病人のケアをすることの難しさを改めて実感します。
 という次第で、昨夜は夕食もそこそこに病院まで付き添ったり、入院の手続きやら準備やらで、結局帰宅出来たのは11時を過ぎた頃でした。その間、仕事はみーちゃん氏が回してくれていました。みーちゃん氏はできなかった洗濯の続き、こちらはダイニングの片付けなどをしながら除夜の鐘を聞く始末。とは言え、ETVの「ムトゥ 踊るマハラジャ」の後半1時間をゆっくり見る時間は取れてよかった。

 今朝は午前中に病院まで蒲団を届ける予定でしたが、気が付けば昼近い時間…。みーちゃん氏のお母さん達がいらっしゃることにもなっていて、正月にもかかわらず休む間もない状況です。
 取り敢えず病院へ行ってから、お義母さんたちと昼食を摂りに出掛けました。親父はまだ食事が摂れないようで、母T氏が昼食中付き添っています。昼食から帰宅すると、母T氏も病院から帰ってきていました。お義母さんたちの目当ては長女H氏なので、一緒に遊んでいていただき、こちらは一仕事。20室ほどのカレンダーを総て掛け替えたり、年賀状の整理などをしています。夕方になれば、みーちゃん氏は母T氏と夕食の準備。ううむぅ、正月からこんなんで、この先乗り越えられるのだろうか?(笑)




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